2014-11-08 のブログから
こおにたびらこさんのツイッターより
》最近の研究によると
あなたが思い浮かべる全てのイメージ
行動・言葉・書くものは何一つ間違
っていないことが分かりました
》何一つ間違っていないということは、
逆に何一つ正しくもないということで
あり、そもそも都合がよいか悪いかだ
けが人類の基準のようです
》ですから、どうも「りんご」は齧って
いないということらしいです・・・
前置きはこれくらいにして
【ドストエフスキーの3つのテーマ】
その②人類はシェアできないのか?
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[カラマーゾフの兄弟の大審問官]より
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カラマーゾフの兄弟で主人公と言えば、
末っ子の
アリョーシャですが、ある意味彼は面白
味はないかもしれません・・・何故か?
それは葛藤が無いからでしょうね
ドストエフスキーは作品[白痴]に代表
されるように「パーフェクトマン」を描
こうとします
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愛するようになるあの女性(ソーニャ)
がそうですし ・・・この[カラマー
ゾフの兄弟]ではアリョーシャがそうで
しょう・・・完全に美しい人・・・つま
り「キリスト」を見出そうとする試みが
常にある訳です
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これに対し、仏教は「ブッダ」を見出そ
うとはしないですよね?
「ブッダを探すのではなく、ブッダの悟
った中身を自己の中に再現する」試みを
追求するのではないでしょうか?
ここまでは、共感できますか?
[大審問官]の中で語られていることの
ひとつに短いけれど刺すような言葉があり
ます
「『我々の神を信じ、我々の王にひれ伏す
か?さもなくば皆殺しだ!』
まあ、人類は最後の日までこんな具合だ
ろうね・・・」
そして、これは言葉だけではなく、歴史
をみると、正にかくありき!の様子・・・
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そして、大審問官なき今の地球では人類
を何百回も皆殺しにしても余る程の各種
兵器が山積みに・・・
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この短くはない人類の歴史の中で
いったいぜんたい私たちは、何をシェア
したかったんでしょう?
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そして、これらの営みは
本当に、「我らの神を信じない不届き者
を戒める為」や、「我らの国民を敵から
守る為」
を動機とする営みなのでしょうか?
そして、それらは、人の意思が決定して
きたのでしょうか?
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人類に「選択の余地」はあったのでしょうか?
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私は、これらについて考えた時「選択の余地」
ということの本質について、少し別の見方が可
能かどうかを試行しはじめた訳です
そこで、思い浮かんだのが3つの鍵のひとつ
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「選択とは『選択しなかった方を想像する力』
のことである」という仮説
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に辿りついたという次第です